会津地鶏とは

会津地鶏の歴史

平家の落人伝説

会津地鶏の由来は確かではありませんが、平家の落人が愛玩用(ペット)として会津地方に持ち込んだものが継承されているといわれています。その後も大変美しい羽装を持っていることから観賞用として飼われていました。

会津地方は養鶏業があまり盛んとはいえず、会津地鶏は小駆で産卵性も乏しいため飼育する農家も少なかったと考えられます。そのことが逆に長い歴史の中で他の鶏と交雑することなく純粋な会津地鶏が維持され、固有の種を守る背景にもなっていたようです。

会津彼岸獅子の羽装

会津彼岸獅子の羽装

会津地方には、古くから受け継がれてきた五穀豊穣・災厄除去を願う郷土芸能として「会津彼岸獅子」があります。この「会津彼岸獅子」の獅子頭の羽装に使われていたのが、会津地鶏の雄(オス)の黒色の長く美しい尾羽です。

会津の人々は、この豊作と家内安全そして春の訪れを喜び合う古式ゆかしい伝統行事に、身近な「会津地鶏」に親しみを込めていたと感じることができます。

この郷土芸能「会津彼岸獅子」は1570年代に伝承されており、このことから「会津地鶏」は少なくとも今から400年以上も前から会津地方に生息していたことがうかがえます。

会津彼岸獅子とは(会津若松観光物産協会HPより)

会津彼岸獅子は、天喜四年(西暦1056年)前九年の役に源義家が安倍貞任を征討の際、士卒の戦死者を弔い、士気を鼓舞するため、従軍の兵卒に笛太鼓の勇壮な調子に合わせて舞をさせたのが起源で、当時は木彫の獅子頭をかぶって踊ったと言われています。

今から約300年(天正二年・西暦1573年)前、会津一円に悪疫が流行し死者数知れぬ惨禍があった時に、主な社寺に獅子舞を奉納し平癒を祈願したところ次第に終息したといわれ、その時季が折しも春彼岸であったために彼岸獅子と呼ぶようになったと伝えられています。

寛永二十年(西暦1643年)に保科正之公が出羽の国「最上」(今の山形県)から会津藩主として移封された時、獅子を先頭にして若松城に入城し、大いに士気を鼓舞したと伝えられています。

また、戊辰の役(西暦1868年)のこと、日光口の会津藩総督「山川大蔵」が会津若松城へ帰城する際、小松の獅子団を先頭に大楽団を組織し、威風堂々と銃列を敷く敵中を行進して城中に入るという話はあまりにも有名です。

「会津彼岸獅子」に関するリンクページ

固有の種

「会津地鶏(純系会津地鶏)」は、普通の鶏と比べて小駆で産卵性も乏しいため飼育数も少なく絶滅寸前でした。
そのような状況の中、昭和62年から63年にかけて相次いで会津地方(下郷町・会津若松市・新鶴村(現・会津美里町)・湯川村)で飼育されていたものを、福島県養鶏試験場(現・福島県農業総合センター畜産研究所養鶏分場)職員が譲り受け、同場でその原種を維持、増殖しました。

その後、福島県では、この地鶏についての血液鑑定を鹿児島大学に依頼し、その結果からも固有の種(しゅ)であることが確認され、純粋な「会津地鶏」として認定されるに至りました。(この固有の種とされた鶏を、交配後の鶏と区別するため「純系会津地鶏」と称し区別しています。)

会津地鶏の研究と普及

さらに福島県は、平成3年度に「会津地鶏」交配様式を決定し(3代交雑)、平成4年度から普及を開始し、福島県の重要な遺伝資源として養鶏分場にて約400羽規模で系統を維持しています。

こうして、「【純系】会津地鶏」の大型化を目指し且つ純系の特徴を色濃く残すべく育種改良した「【大型】会津地鶏」、さらに「大型会津地鶏」から高品質の肉用種とすべく交配させた「会津地鶏」が誕生することとなります。(※交配様式のページをご参照ください)

現在私たちが、鶏肉・鶏卵でふれる鶏は、この3代交雑された在来種由来血液率75%の「会津地鶏」です。性格は、強健で飼いやすいとされ、姿も他の地鶏にはみられない美しい羽装をもつ、高品質の肉用鶏です。

現在でも、養鶏分場では「会津地鶏」の育種・改良について研究を行い更なる高品質の鶏を目指しています。

さらに平成17年12月に「会津地鶏」の生産農家とその流通業者で組織する私たち「会津養鶏協会」が設立され、飼育方法・生産流通計画をはじめ、ロゴマークを平成18年に商標登録するなど、ブランド化を目指して活動しています。

さらに、この会津養鶏協会会員が株主となり、会津地鶏の雛孵化生産施設整備や加工品の製造販売、養鶏資材の供給などを目的とした農業法人「株式会社会津地鶏ネット」を設立し(平成19年2月13日登記)、「会津地鶏」を全国レベルの地鶏として評価されるよう取組みを行っています。

会津地鶏研究と普及に関するリンクページ

 

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